狩婆(Q)思ふ

四十路の現状確認と葛藤。もりもり働いて  猟銃撃ってたら癌になってもうた。

【癌回顧録】阿弥陀の光も銭次第 癌とお金のお話

癌になって一番大事なのは病気を治すことだけど、そのためには時間もお金も必要。
時間を作るには仕事は休まなくてはならず、その間は無給だし、運が悪ければ職を失うこともあると思う、治療を円滑にすすめるためにも、気持ちの負担を軽減できるお金についての話をまとめておこうと思う。

医療保険について
保険に入るときに、調べておいたほうがいいこと
・親、兄弟、叔父・叔母、祖父、祖母の病歴について
 やはり遺伝的になる確率が高い病気というのは人それぞれなので、事前に調べておいて、それにあった保険を選んだほうが良いと思う。
わたしは癌家系だったから、掛け金の安い広く浅い保険を1つ2口と(県民共済とかで十分だと思う)あとは癌に特化した癌保険に1つ入っていました。
例えばがん保険の場合も
 最初の癌から次の癌の発見まで○日以内だと給付金がでない。
 非浸潤がんだと給付金が低い(でない)。
 入院○日以上ないとその後の通院給付金がでない。
 入院給付金は○日以上はでない。
など、保険会社によってさまざまです。契約前にきちんと考えて、検討しましょう。
あと契約前に約款をちゃんと読みましょう!
ちなみに、わたしは非浸潤癌でも満額でる保険でした(ただし一度目に限り)また長期入院には手厚いが短期保険にはすこし手薄な内容にしていましたが、時代的に今は癌も長期より短期入院に切り替えているので、これは、すこし検討がはずれてしまいました。ただ今後、年をかさね、すごーくおばあちゃんになったときにまた癌になってで長期化する場合もあるので、このまま行こうと思ってます。

■限度額適用認定証について
これをもっていると1ヶ月にかかる医療費が収入により、規定額を超えないようにしてくれます。
規定額を超えたあとは、会計時に支払いが発生しません(素敵☆)
もちろん、後で高額に支払した医療費が後ほど払い戻される「高額療養費制度」もあるんだけど先に支払うお金はコストカットしたいので、できるだけ事前に持っているといいです。
また、すでに病院の窓口にて支払ってしまったあとから後日、認定証を提示しても適用されません! 事前に準備してください。
わたしは、怪しいかも、とおもった時点から、認定証を申請し、最初の検査の段階から使用していましたので、かなり医療費は免除されました。(結局、大事にいたらなくて必要なくても認定証は返却すればいいので、怪しかったらとりあえず、認定証発行へ)

では、どうやってもらうのか
国民健康保険の方は発行している市役所や区役所へ。
その他のかたはご自分の健康保健証を見てください、下の方に保険者名称や住所電話があるので電話して問い合わせてみましょう。
組合にもよるとおもますが、わたしはアポとって直接健康組合に出向いて、即日発行してもらいましたが、送付も可能でその場合1週間程度で手元にいくといっていたような。
期限は、とりあえず3ヶ月で申請しました。

限度額目安としては(アバウトですので気になる方はぐぐってね)
月収が28万~50万の方 8万程度
月収が26万以下の方   6万程度

なお、注意すべきは入院と通院、また別病院の場合は計算が別となってしまうので、それぞれが限度額までいってしまうということ、月またぎはしないこと。
結局、のちのちに高額療養費制度で払い戻しはあるのだが、入院と放射線治療が同じ月で、でも限度額あるから余裕と思ってたら、別計算で思った以上に医療費がかさんでしまった。というぐぬぬ体験してしまいました。 とはいえ、出来るだけは早めに、認定証をゲットしましょう!

■癌ってどれくらいお金かかるの?
これは、あくまでアバウトかつ、わたしは薬物療法までいかなかったのでもっともっと掛かる人は多いと思いますが、とりあえず実費分をさくっと書いてみました。

人間ドック 5万くらい(オプションあり)
最初の精密検査で 1万くらい
入院手術(4泊5日)限度額いっぱい。
放射線 準備CTとかいろいろ 3万弱 ✕ 2回
放射線治療 1日6千円 ✕ 30日分
その他診断書6通(保険用・会社用) 4.5万くらい
皮膚科 1万くらい

ざっとこのくらいです。
細かい通院分や交通費はいれていません、あと入院や環境が変わることによって、必要になった雑費は入れていません。
特に放射線治療は毎日毎日6000円かかるので、お財布からぽいぽいお金がなくなりますw
もし抗癌剤治療があったらもっともっとかかってました。
こう考えるとやっぱり限度額申請って大事ですねーその月の限度額超えたら会計は0になります。

■勤務先の制度を知ろう
わたしの勤務先は療養でやむなく欠勤した場合、医師の診断書があれば『傷病休職給付金』という制度があり、お休みをしていた無給だった期間分の本来出勤していればいただいている給与の約70%弱、給付していただけます。これはすごくありがたい。休職明けに申請し、数カ月後とかには支払われるそうです。
また、主治医からの正当なコメントがあれば自宅療養期間もこの制度に適用されます。
なお、高額療養制度は自動計算してくれる会社もあれば、申請制のところもあるそうです。自分の勤務先の保険組合の制度をよく調べましょう。

医療保険の給付金や勤務先からの給付金が入るには、診断書が必要なのですが、診断書は申請から発行まで病院にもよりますが3週間かかることもあります。また、通院記録をいれたりするので診療終了後にやっと申請を依頼できるので、あとあと入ることはわかってても、どうしても先立つものとして必要になってきます、貯金って大事なんですね。

国民健康保険について
退職をすることにしたので保険を会社の健保から国民健康保険に切り替えました。
主人の扶養に入ることも考えたのですが、またゆくゆく働くだろうし、別で入ることにしました。
ここで大事なこと!市役所で国民保険に加入します。また、退職2週間後程度で離職票が届きハローワークに行くと思います。離職票の離職理由を確認し必要に応じて意義ありと記入しきちんと窓口で説明しましょう!とても重要です!
わたしは自己都合で一身上の都合の退職となってます、つまり離職コード40です。
はい、そうなんですけど、実際の離職理由は2つ「病気のため」と「業務整理がうまくいかなかったため」です。これは特定理由離職者離職コード33に当てはまります。
結局、後日医師の診断書を持参し(ハローワーク書式)33を認定してもらいました。
ハローワークにて33と認定されたら、その書類をもって再度、市役所にいけば国民健康保険料が1年間1/3程度までに減額されます。
これはとても大きいです。これまでたくさん働いて税金を納めてますので胸を張って感謝して減額てもらいましょう。
コードについてはこのHPに詳しくありました。<http://www.knoki.net/code/>

私微々たる貯金しかなかったので癌になったときにガクガクブルブルしてましたが(最初はいくらかかるかとかまったく未知数だったので)察した両親から初期援助がありました。
本当に、心から助かりました。 ありがとうございます!!!

その後、民間の医療保険の給付金や傷病申請の給付金などあとからいただけるものもあり、今無職でもなんとか生活していけます。
大きい病気もしたことなかったので癌になって医療費とか本当に未知数すぎて毎日不安でした。
病気も待ってくれないし、事前に知ってたらよかったな、といいう情報をまとめてみたので参考にして貰えると嬉しいです。

 

【癌回顧録】艱難汝を玉にす、と信じたい。退職と不信と睡眠不足の巻

復職きっかけで不安定になってしまい、産業医とも面談を重ね、退職を決断したが、日常的な涙と不眠と吐き気は続く。
産業医面談時に、相談してみたの、わからなくて「これは職場の悩みと受け取りますか、癌治療の一環としてとらえますか?」って。というのはわたしの癌は大人しいタイプで転移もないし、緩和ケアの対象になるかわからなくて。
産業医さんは言葉を選びながらこう伝えた。「正直、病院によるところもあるので一概にいえませんが、わたしの勤務している大学病院でしたら十分、緩和ケアの対象としますし、わたしは癌からのストレスの流れがあるとおもいますよ。」とおっしゃってくれた。

実は、産業医面談の前にあまりにも日常的に涙腺がゆるみすぎていて、不眠もでているのであまりに不安になって予約してないけど泣きながら主治医のもとにいったんよ。
予約とってないですけどね、涙ながらに、こんな状態なので緩和ケア受けたいと、そしたらやっぱり事情はわかるけど、予約してないので見れません、1週間後に予約したのでその時に来てくださいって言われてしまったの。

ここで私の通院してるとこのHPにて緩和ケアの案内をみてみます。

がんによる痛み、苦しさなど、様々なからだの不調だけでなく、不安や、気力の低下、 不眠など精神的なつらさのケアもおこなうのが“緩和ケア”です。
当院はがん診療連携拠点病院として、がん患者さんの体や心のつらさを和らげることに力を注いでいます。
緩和ケアは決して、終末期の患者さんにだけに提供されるものではありません。がん と診断された時点から患者さん、ご家族へ提供されるとともに、診断、治療、在宅医療 など様々な場面で切れ目なく実施される必要があります。
患者さんの生命、生活の質を大切にして、少しでもご自分らしい日々を送ることができるように、患者さんとご家族を支援します。
主にがん患者さん・ご家族の以下のような相談に対応しています
●痛みがつらい  ●夜眠れない  ●息苦しさがある  ●吐き気がつらい
●不安が大きい  ●気分が落ち込んでいる  ●気持ちを聞いてほしい
●退院後の生活について心配  ●だるい
当院に通院や入院しているがん患者さんであれば、その時のがんの治療の有無に関わらず緩和ケアチームに相談することができます。がんと診断されたときから、いつでも受けることができます。はじめは主治医の先生から依頼が必要となります。がんに関するつらさのある方、話を聞いてみたい方は、主治医もしくは担当の看護師、がん相談支援センターにご相談ください。当院通院中の方で、受診をご希望される場合は、担当医師、または看護師にご相談ください。

ちなみにこの下には図があり68%が治療終了後に緩和ケアを開始していること、緩和ケアはいつからでも開始できることが書いてありました。
とりあえず、まずは初回は主治医をとおしてと書いてあったので、1週間まって主治医に依頼することとしました。
そして、その1週間の間に産業医面談を重ね、退職を決断しました。

さて1週間たち主治医と話せました。
こうして、話してる間にも涙が止まらないこと、不眠、また復職がうまくいかなかっこと、不安感を伝え緩和ケアに行きたいと相談してみました。
主治医は「まず緩和ケアはもっと重度の癌患者さんが利用するものなので、あなたは緩和ケアの対象にはなりません。また、その不安と癌は関係なく聞こえる、あなたの職場の問題ではないのですか?」「あなたの外科的治療はすでに終了しております。わたしは外科医で精神科の医師ではありません、あなたを治すこともできないので精神科へいって治療を受けてください。」「それに緩和ケアは聞くだけで治療とかしないから。」
とのことでした。はあ。もうなんもいえない。
ちなみに、この総合病院では精神科は2名しか医師がいないこととそもそも非常勤ということもあるので精神科の予約は早くて1ヶ月半後、さすがに先すぎるよね。と先生も苦笑、ここから30分くらい離れてるところにある精神病院に紹介状書くねと言われたので、紹介状書くなら会社の産業医の先生がいる大学病院にしてくださいとお願いし、病院名と氏名を伝え、紹介状を作成してもらいました。

はあ、緩和ケアってなんやねん!見れないならHPに案内書くなや!あームカムカする。

ああ、やっぱこの主治医というか病院のケアが苦手。

大学病院へ事前に予約電話を入れる。
紹介状があることを伝え、しばし保留後、なんと産業医の先生が直接電話に出てくれた。
予約来週の月曜になっちゃうけど平気?だって。優しくて泣きそう。

そうこうしてたら、会社の健康管理室から説明があった上司からもメール連絡がきて、退職の方向で動くのでその日程調整などで数回やりとりをした。
上司なりに、申し訳ないとおもっているらしく、退職日まではこのまま出勤しなくてもいいし、負担になるだろうから引継書も作成しなくていいよ、デスクの整理も退職後でもいいよ。と連絡があった。退職日は結局、翌月末となり、時間もあるのでもう少し落ち着いたら伺うので退職までにはデスクは整理します、返答しておいた。
あとは退職願を送付したり、幾つか書類にサインしたり、退職日までまた休むので診断書準備は大学病院にお願いしようとか、考えてた。

月曜になり、大学病院のメンタル科へ行き、会社の面談で話してた内容の確認から入り、退職することによって状況も変わるから大丈夫ではないかな、とまた、薬も出す必要もないし、定期的は受診も必要ないと思う、いつでも悩んだり、不安になっり、特に不眠が続くようなことになったら顔をだすようにと言ってくれた。
毎週カウンセリングとか入るのかと不安もあったけど、先生は 『あなた、大丈夫だから、必要なのは休息だけだよ。』と太鼓判をくれてとりあえずは来月末にまたおいでと言われた。
病院も違うし、主治医の文句は言わないでおいたが、こちらの病院は緩和ケアも精神科も医師がたくさんいて、乳腺外科もあるし、なんだかみんなテキパキしてるし、次なにかあったら今度は病院選びは慎重にしようと決意した!
だってもしまた癌になってしまったら、次回は心のケアも含めての治療じゃないと、わたし無理かもって思ったから。

メンタルが崩れてから
■涙について 
毎日涙がでるって状態は最初の1ヶ月くらいで治まった。その後ゆっくりとさらに1ヶ月後の退職した時期には理由のない涙はでなくなってたと思う。
でもいつスイッチがはいるかわかんない不安は残ってる。

■不眠について
2ヶ月くらいは朝まで眠れなかった。6時7時くらいにやっとウトウトするかな〜て感じで。でも仕事も休んでたから無理して夜に眠らなくてもいいやって昼くらいまで寝ててもいいよと自分に甘くしてやり過ごしてた、そうすると本当に昼まで寝れる日が何日かできて、寝る時間も4時、3時と徐々に早くなってきた。2ヶ月後には2時くらいには寝れるようになっていた気がする。それでも、前の職場の人に会ったり、なにか思い出したり、仕事のことを考えたり、緊張状態になるとまた今でも4時くらいまで眠れない時はある、一時的だけどね。
実はメンタル崩してから3ヶ月たってるんだけどね、まだ睡眠は不安定かな。朝すごく弱いし。

■吐き気について
これは、退職を決断してからぱったりなくなった!

■思考の整理整頓について
これは実はわかんないの、まだ本も読む意欲がわかないしね。
日常生活には問題ないけど、仕事とかできるか?頭回転するのか不明。

全体的に最初の1ヶ月はまじで地獄だった、もはやどう地獄だったかの記憶も曖昧なくらい地獄w でも本当に辛かった、人を憎んでばかりしたし、くやしくってたまらないって感情だった。

ということで、睡眠の不安定と思考の整理以外は、今の所問題ないです。まあストレスのない無職生活ってゆうこともあるんだけどね。
主人もね、夕飯は無理に作らなくていいということで最初の2ヶ月はむしろ夕飯作成禁止令がでたくらいw
これ、なにげにすごくありがたかった。もう本当にのびのびさせてくれた。
朝だって、寝てていいよ、って出社する主人を見送っていない無職妻w

でもいつまでも無職だと生活もできないからね、どこかでまた働きにいかないといけないので睡眠パターンくらいは徐々に徐々に修正していきたいと思ってる。思ってはいる。
もともと朝弱い上にメンタル崩して本当に朝寝やばいよねーくせになってる感もいなめない。
ってことで学校にいってみようかな、と。
月ー金で毎朝通学すること、物事の理解力についていけるかで睡眠調整と頭の整理の2つ解決できるかもしれないと思ってね。
働く前のリハビリも兼ねて、自分のいままでのあたりまえの自信を取り戻そうかと思って。
で、あんまり難しいことは学べないと思うので、あんまり自分の苦手分野じゃないことでーって考えてます。

人と会って、しゃべることも負担じゃなくなってきた。
でも調子にのると興奮状態になるのか、夜に不眠がくるからセーブしつつ。

今の自分には何ができないのか?何ができるのか?毎日範囲に変化が出てる気がします。
でも4月に入ってすこしだけ、すこーしだけだけど気持ちに余裕ができてきたかな。

 

【癌回顧録】運否天賦 復職したら心が折れてしまったの巻

『仕事とは社会との接点であり、生活を豊かにするものであり、人との関わりであり、メンタルを強くするもの。』
つまりは成長していく上では欠かせないものだと思ってる。
関わりがなくなっていくとしだいに自我が肥大してわがままになってしまうこともあるからね。

でも、この度、気がついたことは、上記はあくまで健全な精神、健康な心、自身が平常時の時にのみにあてはまることだと痛感した。
自分自身が弱っている時はあえてそこに身を置く必要はないよと。
わたしは自分自身に鈍感だった。

体の手術傷や皮膚の跡も日々、回復してきている。
今は胸の痛みもだいぶなくなってきてる。
体だけの話をすれば、もう特に治すところはないので多少疲れやすい体力も日々動くことで戻って来るものだから復職は当然の流れと信じて疑っていなかった。

復職し、正直初日からバカみたいに忙しかったんだけど
(復職前の産業医面談に相席した上司は「無理しなくていい、座ってればいいくらいだよ」と調子のいいことを言っていた。そこまで真には受けてはいなかったけどさすがにこの業務量には驚いた。)
まあ、作業的なものはいいの、体を動かすのも手を動かすのも、入力関連も問題なし。
ただ、思考・調整系の仕事をするとなんとかできるんだけど3案件以上の同時進行は完全無理なうえ疲労困憊半端ない。
特に人事関連業務はかなり神経をすり減らす。
疲労感と帰宅後の頭の混乱が半端ない、目がぐるぐるする。
初めての経験に自分自身が一番の大混乱。

あれ?なんだこれ?まあ4ヶ月も休んでたし、徐々に慣れるかなーでもまあ復帰前の仕事量をいまこなすのは無理だなあ。というのは、これまであれやこれやちょっとお願いを安請け合いしてて、手伝ってたつもりが通常業務に追加されて担当になってたり、気がついたら課内で(この課の業務では)2番目の古株になってたり、わたしが休職に入る2ヶ月前に長いこと一緒に働いていた方が部署移動してしまってたりで休職前は一時的に業務量が増えていて通常時の1.5倍くらいあったのよね、今後、業務分担の整理をしなくちゃって、ってときに、休職はいってしまってて。
休んでる間に業務分担してくれてると思ってたら、なんにも解決されてなかったorz

今の状況を話してすこし案件量を調整してもらおうと思い業務分担を上司に相談したら、ダメだった。
『え~いま年度末にむけて忙しいし、わかる人あまりいないからやってよ~』軽くと言われて終わってしまった。(おいおい、復職前の産業医面談時とずいぶん話ちがくない?上司さんよおお)
ええ、しょうがないからがんばりましたよ、数日間だってやるしかないからさ・・・ただでさえ、休職で迷惑かけてたわけだし、そして日々増える業務量・・

ぱーーーーーーーん        あ、心折れちゃった。

突然きた、帰宅して家にいるともう涙がとまらない、頭痛い、胃が痛い胃酸すっぱい。
仕事のこと頭でぐるぐるぐるぐる。気持ち悪い。3時とか4時まで眠れない。
とりあえず、風邪といって仕事休んでみたけど悪くなるばかり、翌日の出社のことを考えると吐き気。
不思議なのは泣き方、嗚咽するわけもなく、ヒックヒックもいわず、わーんともならずただ淡々とながれてる感じ、だから普通に話しながら涙もただながれてる感じ。
あれ?やばくね?さすがに主人にも隠せなくなってくるし、そうだ、親友が産業心理学学んでた、彼女に相談してみよう。

親友はすごくいいことをたくさん教えてくれた。
この文章に最初に書いてあることは、彼女が教えてくれたことだ。
病気という数ヶ月に渡る大きな闘いをひとまず終えたのに、なぜ休まずに、体の次に気持ちのケアをしないまま復職というステップに進むのか?ひとまず休むことの方が先じゃない?と。
今、無理することで取り返しがつかなくなることだってあるんだよ、って。

仕事は好きだし、まあ多少神経質なところはあるけど、要領はいいし、お調子者だし、酒飲みのダラダラ人間だし、そんなわたしは心のケアとか軽視してた。
むしろ仕事をすることによってケアできるくらい思ってた。
てゆうか正直、4ヶ月も休んで勤務先に申し訳ないとばかり考えてた。
でもよくよーく考えたら4ヶ月遊びで休んでいたわけじゃなく、病と闘ってたんだ、大事なことを忘れてた。

自分を甘く見てて大反省だ。
大事なのは自分だ、仕事は今やるべきことではないかもしれない。
周りの事とか見栄とかプライドとかちょっとだけ先のこととか考えてる時でもない。
そんなものにとらわれてると、本当に大切なものを無くしてしまうかもしれない。
本当に焦りを感じたの、危機感を。

全部大切で必要じゃないものなんてひとつもないんだけど、優先順位が見つかったら、すこし楽になった、あいかわらず涙でるし、夜眠れないけど。
でも、どうしたらいいか見えてきた。

主人に自分の気持ちを伝えた、今の状況をすごく理解してくれた。
通院中の病院には緩和ケア内科という癌患者専門のサポートがあるらしいので主治医に相談して受診してみようと考えた。
あと産業医と面談してプロの意見も確認しつつ今後の事を決めていかなくては。

産業医と話す前に決めることではないのかもしれないけど、わたしはもう辞めようという思いが強かった、なぜかというと休職延長は自身の気持ちの負担になるから。

今いるところは、経験者にけっこう間口が広いし、もどりたかったら、ちゃんと治して、いままで通り働けるようになってから、また公募からチャレンジして採用されればいいことだ。
いまは仕事のことを考えないで本当にちゃんと頑張った自分の心をいたわってあげようと思う、手遅れになる前に。

**
産業カウンセラー面談1日目
カウンセラーさんは再度休職してゆっくりかんがえたら?という提案をしつつも、辞めたいという気持ちも理解してくれている。
この日は会社に雇われてる臨床心理士さんで、彼女としてはやめてしまう事によって他にストレスが移行してしまう心配をされていました。

明日、連携している大学病院の医師が来所する日だから、改めてもう一度面談となる。
まずはそこで、ナーバスになって辞めたいといってるのか、体のためにやめるべきなのか判断をしてもらおうとなりました。
あとは、はっきりとは言いませんでしたが、わたしが現在通院している病院、緩和ケア内科等の期待はしてないようで、なんとなく行くならと他の病院を進めてました。
現病院は会社とも距離が近く、多少のつながりもあるので、たぶんいい話きいてないのかなあ、という印象をうけた。
まあ、わたしも通院してて感じる部分はあるから、なんとなく言わんとしていることは伝わった。

はあ、たくさん泣いて疲れた。

産業医面談2日目
大学病院で癌の緩和ケア内科およびメンタルヘルス科にいらっしゃる医師の面談。
ここでも話してても何してても淡々と涙が止まらない。
少し話してて、明確に「うつじゃないね、大丈夫」「わたしは社内の人間ではないからはっきり言いますが、今の状況は仕事を辞めれるならやめたほうがいいと思います」とはっきりおっしゃってくださいました。
仕事が嫌で辞めたいと言ってるわけではないと判断してくれて安心しました。
頑張るのは心が健康な時にするものです。と言ってくれた。
涙については、術後などホルモンの乱れがよくあることなので、それもあるから徐々にね、治るよ。
仕事は、心が健康になってからで充分だから、人生ながいんだからと。

先生は復職は今、社会問題にもなっているけど、やはり、組織としての考え方がしっかりしていても、もっと狭い、個人や部や課での考え方がとても重要で、これが合わなくて、本当にメンタルがくずれてしまう例をたくさん見ていると。
また、勤務時間の時短などの調整も規定としてできないのであれば今、フルタイムで働くことは本人の思う以上に負担が大きいことや今の課の状況等とくに復職に慣れる前、数ヶ月後には組織改編で新しい課に配属になることが決まっていて、この変化もあまり復職後としてそぐわない事など丁寧に絡んだ気持ちをほぐしてくれました。 (*休職中に今いる部の解体が決まり、数ヶ月後には新規でできる課の配属になるみたい、急に解体がきまって部全体が業務も人間関係も絶賛ギスギスしてる時期だったのよ、なんて間の悪いタイミング!)

また、わたしの通っている病院の緩和ケア内科と合わなかったら、自分の病院にきてください。
社内の診察で会いましたが、仕事辞める辞めないにかかわらずちゃんとケアしますからと言ってくれた。
なんか、たくさん話せてすごくホッとした。
先生から会社の産業医さんと上司に直接説明してくれることとなった。

辞めていいんだよ、とわたしのわがままじゃないんだよ、と言ってくれた気がして本当にほっとした。


結局2週間くらいしか通勤しないで心が折れてしまった。
でも早く判断してよかったと思ってる。

【癌回顧録】禍福は糾える縄の如し 治療も一区切りついたと思っていたの巻

長かった放射線治療がやっと終わり。
最初の50グレイは右胸全体とリンパのある脇と広範囲に、最後に追加で10グレイは腫瘍があった場所にピンポイントに照射。

最後の2週間くらいは皮膚のただれが本当にひどくなってきて、その他、日常的なめまいとか胃のむかつき、施術している場所以外の肌トラブルに毎日の通院。
自分で思っている以上のストレスがかかっていたみたいで、独り部屋で掃除としているとき、料理中、ふとした時にわけもなく感情の波にのまれて、本当につらかった。
もう理由とかなくてね、どばーーーとした感情で、わーんわーんと子供みたいに声だして泣いたりしてた。

主人や他の人がいると平常心なんだけど、1人でいる時間は本当に不安定だった。
自分でも結構やばいかなーと思って、病院のセラピーとか受けたほうがいいかなとか考えたりはしたけど、どうしていいかわかんなかった。

主治医は外科的治療には興味が強い人だったけど、メンタルにはというか外科にしか興味なさそうな人だからなんか相談できなかった。
以前放射線治療前に、仕事の復帰のタイミングについて相談したところ、すごく興味なさそうに返答されてしまったもんなあ。「外科的治療は終えたので、本人しだいでいつでもいいんじゃないですか?放射線しながら通勤してる人もいますし。」「まあ不安なら放射線終了後にしたらいいんじゃないですか?」

その後、ずいぶん後にメンタルギリギリになって相談した時も、案の定外科にしか興味ないんだよなーって感じだったし、得意分野以外にはタッチしないってスタンスなんだと変に期待しないようにしてる。

まあ、そんなこんなで放射線治療を終えて、肌はまだ辛くて体調もイマイチだったけど、治療を終えた喜びのが大きかった。
ああ、わたし、病人からやっと社会復帰できるんだと。
とりあえず、家の中もあの人間ドックから時が止まっていたので(衣替えとか、いろいろw)身辺整理もしたいし心配かけた親類にも挨拶したいし、3週間くらい休んでから職場復帰することにした。

ちなみに、この時期の不安感を乗り切ったのがツムツムとおそ松さんだった。
ディズニー嫌いなわたしがまさかツムツムをはじめるとは!
ツムツムはいいよ、1人でいても不安なことを考えないで無心でできるから。
暗い気持ちになってきそうになると無心でツムツムしててやりすごしてた。
で、おそ松さんみてゲラゲラ笑ってた。

ここで復職を決めた当時の私の前向きな日記を見てみましょう。

『社会復帰を目前にだらだら過ごしております。
思えば、療養中ははやく普通の日々に戻りたい、普通に仕事したいと思っておりましたが、こうして復職目前となりますと、メソメソします、ああ無職とかいいなあ、だらだら暮らしたいなあと。
健康でお金に余裕があって無職とかだったら最高だなあ、といまだ夢を見ております。

来週から復職です。
こんなにだらだらしたのは久しぶりでそれなりに楽しかったですが、でも、病気はもうこりごりです。

不思議なことに、もうすごく辛かったあの頃のことは、ほとんど覚えていません。
覚えてるうちに日記書いておいてよかった。
むしろ最近、前の日記読んでても軽く他人事です。

ずいぶん休んだので頭も体ものろまになりかなり不安ですが、まあなんとかなるとおもいます。

わたしの今年が始まりそうです。』


おお!ご機嫌ですね。復帰が見えてポジティブモードに移行しようという努力が伺えます。
でもこの時期は、なんか放射線治療を終えて、一区切りついてて復職の希望もみえてて、なんかよかったなあ。

そうそう、かなり記憶がとんでるんですよね。
癌かもしれない・・・という時期から癌治療中、療養中の記憶がすごく曖昧なの。
日記書いてて本当によかったな。

このポジティブモードがこの後、あんなふうに転がるなんて・・・
人生っていろいろだよねー。

【癌回顧録】粒粒辛苦 放射線あびまくりんぐの巻

ああ、わたし乳がんだあ。
なんか気持ちの整理がつかないまま放射線治療に突入。

この時期は、告知直後はさすがに涙涙だったけど、夜にはしっかりしなきゃセンサーが働いて、このあとは整理はつかないけど、受け入れるしか無いからと妙に平常心を装って行動してた。

今思えば、我慢しないでもっと悲壮感だしてもよかったかも、落ちるとこまでめそめそしてもよかったかもなあ、とも思っちゃった。
と、いうのも、この数ヶ月後から妙に気持ちが突然落ちてしまって、コントロールできなくなったり、無意識に涙が流れてしまったり、情緒不安なことが出てきてしまったから。
当時は病院に対する文句や愚痴も、細かいことだしなんか言ってはいけない気がして、気持ちを押し殺してる部分はあって、困るんだ〜とは言えても、この小さいイライラとかはうまく人に伝えられなかったんだ。
ブログも別にリアルタイムでしてたんだけど、妙にまわりに感謝してて(ラッパーかよ)自分の陰鬱な部分はあまり書いてないの、知り合い相手にいい人ぶる私。

あああああああ

ってことで、やっぱだめよね、小さな愚痴も吐き出すんだ!もうあんなに情緒不安定になりたく無いもん。

さて、まあ始まりましたよ、放射線治療、土日祝日以外は毎日通います。

放射線治療中は体が結構しんどかったなあ、毎日通いで2ヶ月半。
なんかずーとだるかったし、船酔いみたいにフラフラするし、息切れするし、肌は荒れるし、後半は胃も調子悪くなるわ、口ヘルペスはできるは、身体中蕁麻疹できるし、胸と脇は黒ずんで水泡できて痛いしかゆいし肌は熱くてほかほかしてるし。
あっちには、この軟膏、こっちにはこの軟膏って体のあちこちにそれぞれの軟膏ぬってて軟膏婆化してたわ。

でも放射線科の技師と看護師のみなさんはすごくいい方々でわたしの治療の唯一の癒しだったなあ。
本当にいい人たちだった。

しかし、放射線科の医師は存在意義のわからないおじいさん先生だった。
週に2回は問診あるの、で聞かれるから体の不調を訴るじゃん、そうすると「それは放射線のせいではありませんから」「とにかく免疫あげてください」しか返事しないのよ。
もうさ、何のせいでもいいからさ、聞くんならアドバイスか他の科に紹介や予約とってくれるとかさ、してくれればいいのに、それもしてくれないの。
人生初の口ヘルペスできちゃって、いたくてどうしていいかわからない時も「うちの病院の皮膚科は人気あるから予約とれない、自分で駅前の皮膚科にいって」
風邪ひいた時も「風邪気味なの?この時間からうちの病院でみるのはむずかしいから、どこかの内科でみてもらえば?(*この病院は基本的には午前中に受付しないとその日に診療してくれなく、放射線科の問診がだいたい午後イチが多いので、こういった返答になるっぽい)」とか。

結局、同じ病院で予約うごいてくれないから他の病院に掛かるといという、まさかの病院はしご。
病院かわると医療費が別にかかるから、できるだけ同じ病院に診てもらいたいのに・・・何の為の総合病院かと。

気がついたら季節は夏の終わりから年も明けて、晩冬だったなあ。

【癌回顧録】喪家の狗 ついに乳がん告知されてしまうの巻

病理結果診察前日に病院から電話があった。
免疫組織化学染色の追加検査もしたので金額が変更しましたと。
まあ、元の金額すらきいてなかったんですけどね、はい。
でも追加検査したってことは、あまり良くなかったんだろうなあ、ともやもや。。。

翌日、病理結果がでました。
悪性でした。乳がんでした。
厳密には、悪性と良性両方の腫瘍がからみあい、悪性の方が割合が大きかったそうです。

ただ、わりとおとなしいタイプの癌だということ。
すでに大きめに切ってあるから、追加の手術はないということ。
リンパへの転移の可能性はかなり低いということ。
放射線治療を60グレイすること。
来週に放射線科の予約を入れたこと。
化学療法等の薬物療法の必要はないということ。
だいたいこんなことを話していいたとおもう。
なんとなく、わかってたけど、実際に悪性腫瘍でしたと告知されると、頭が真っ白になってしまって。
先生の言葉もあまり頭に入らない。
でも、さも冷静そうに、聞いてる自分がいた。

告知だから長くなるかと思ったけど、意外と早く10分程度で診察室を出て、なんか頭はふわふわ。
ああ休職の延長の連絡しなきゃとか考えながら、ふわふわ会計して、主人にメールして、病院をでて、歩いてたら涙がでてきた。
人のいない遊歩道の椅子に座って、しばらくずーと、ひとりで 泣いていた。
もう平気かな、って思って数歩進んで、また涙がとまらなくなって、やすんで。
わかってたんだけど、しょうがないんだけど、もう腫瘍は体に中には無いのに、確定すると、告知されると、こんなに辛いんだな。って痛感した。

そのまま近くの公園に行ってぼーっとする。
公園は人も多いからか、涙がとまる。ありがたい。日常にもどりたい。
声を聞いたり、優しい言葉でもろくなっていたので、極力、連絡はメールですませた。

ああ、来週からは放射線治療だ、どうなるんだろう。
不安だけど、親や親類への報告など、やることもあって、なにがなりやらな日々だった。

【癌回顧録】朝に夕べを謀らず 悪性なのか良性なのかどっちなの!の巻

退院後はテープでかぶれた部分は1週間程度でよくなったが、全身麻酔時に足の血流を促進するマッサージみたいなつけてて、それが蒸れてしまって両足膝裏に湿疹ができて1ヶ月ぐらい痒い地獄だったわ。
傷口は、ガーゼの奥は未知の世界(ちらっと見たけど、桃とかのやわらかな果物保護のフルーツキャップみたいのがされててよく見えなかった)シャワーOKだったからガーゼが濡れないように、防水シートを貼って入ってた。
あと結局、胸バンドしないと、胸が固定されなくて痛いので寝てる時もしていました。


さて退院3日後に手術後説明で通院
熱は37度前半 微熱の日々、胸は特に痛みを感じない@痛み止め効果と胸固定効果
はじめて、ちゃんと傷口を見る、想像以上に傷口はシンプル!綺麗でびっくり!シンプルに乳りんの周りをグルッと半周ちょっと、線で半丸描いてるみたいな傷口でこの先生手術うまいんだあと素人ながら感心。

この日に初めて具体的な手術説明をしてもらう。
当初は腫瘍の上から切開してまるっと腫瘍を取り除いたら、そのまま閉じて、しばらく中に水が溜まるかもだけど、自然に水は引いてくこと、多少は胸の形変形するかもしれない。 と説明を受けていました。
私としては、手術の一切は先生にお任せするので、多めに切ってもらってもいいし、胸の形も気にしない、好きなようにしてください。とお願いしてました。
麻酔後、もう一度腫瘍を触り、先生は切開方法を変更したそうです。
切開位置は腫瘍上部ではなく、傷が目立たないよう乳輪にそって丸く半周強切開し、そこからヌーンと伸ばして腫瘍まわりをすこし多めに取り除く。
結局直径5センチ強の腫瘍を取る、その分胸が凹むのもなんなので、周りから組織を引っ張り、繋いで胸の形を整えて、空洞を作らないで閉じるという再生まで!結果、全身麻酔でよかった、好きなように手術できたと、おっしゃってました。
取った肉塊の画像を見る、マジでかい。うけるw 腫瘍からさらに大きめに7~8センチ立方体で切除って感じかしら。
胸バンドはもう必要ないとのことで、返却。
出来る限り、日常的な生活をすることと、ただし、湯船に入るのは来週からね、と言われる。

で、帰り道から地獄をみる。
通院はこの日は自転車だったんだ、行きは問題なし、帰りは胸バンドを返却することは知っていたのでスポーツブラを持参してたんだけど、もう地獄、アスファルトの普段気がつかないちょっとした凸凹でこんなに胸が振動するとは!胸超いたい!痛い!痛い!まじ挙動不審者状態。
今まで痛くなかったのはバンドで固定してたからと痛感。
この日から、寝る時(寝返りとかで位置の移動が!)とか超痛いし、どんなブラが負担がないのか、ブラを探す!というミッションが追加される。
はじめに試したのはユニクロのブラトップ、次はフルカップのすこしおばちゃんみたいなブラジャー。
はい、この2つ全然だめでした。痛い痛い。ああまた小銭が飛んでいく〜
そこで出会ったのがSMOONのノンワイヤーブラトップ!これまじやばい!サイコー!なんて素敵な商品に出会ったのかと乱舞した!乱舞しても痛くない!!これで動きによる胸の痛みとはおさらばできた!
また、この後にある放射線治療中の肌荒れにもこのブラは相性が良く、本当に何枚も買って重宝しまくった。

傷口はサージカルテープを細く2ミリ×1センチ弱くらいに切り、傷口に平行に5ミリ間隔くらいに貼ってあり(フランケンシュタインの縫い目にみたいに)自然に剥がれるまで剥がさない。
はがれたら同じ場所に新しく貼る、その上からガーゼを置いてテープで止める。
お風呂の時だけガーゼの上から防水シートを貼って、風呂出たら、ガーゼを取り替える。この繰り返し。
ちなみに防水シートをしないでお風呂に入るようになったのは病理結果でてからすこししてからだったかな。
放射線治療が始まる1週間前にはお湯に直接つけてた。
で、つねにSMOONを着る!寝るときも、どんなときも、これで安定。

傷口は基本放置、薬を塗るわけではないし、決して触らないようにしてた。
こう、自然治癒力に任せる感じw

なので退院後購入しすぐに重宝したのは
・サージカルテープ
・ガーゼ
・防水シート
・マフラータオル
・SMOONのブラトップ

さらに10日後に病理の結果がでるので次回予約は10日後。
痛み止めの薬を飲んでるから胸は激しく痛くはないけど、右側には寝返り打てないせいか、もう右半身が異常なコリで肩も足も腰もカッチカチ背中がすごく痛かった思い出。
とりあえず、諸悪の根源はすでに体外だし、あとは病理を待つだけで、悪性か良性かで今後がガラリと変わるんだろうけど、今はわかんないってゆう、本当に、なんてゆうか微妙な10日間だったよー。

 

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